1960年代〜

『白蛇伝』(1958年)を筆頭に、『安寿と厨子王丸』(1961年)、『わんわん忠臣蔵』(1963年)、『鉄腕アトム 宇宙の勇者』(1964年)、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)、『空飛ぶゆうれい船』(1969年)、『長靴をはいた猫』(1969年)、『海底3万マイル』(1970年)、『どうぶつ宝島』(1971年)など、東映動画と虫プロダクションが長編アニメを世に送り出した。

これらのシリーズは「東映まんがまつり」などのようなお正月などの定番映画として低年齢層向け映画として普及することとなる。これらの映画の多くは映画館だけではなく、小学校の上映会などにも貸し出されて、多くの子供たちが観賞する機会を得ることになる。またこういった長編アニメ映画の小学校などでの無料公開は、後の星空映画会などへと引き継がれていくこととなる。

1963 年に虫プロダクションが『鉄腕アトム』の制作を開始。これにより本格的テレビアニメ時代の幕開けとなった。翌年には日本初のテレビアニメからの映画化作品『鉄腕アトム 宇宙の勇者』(1964年)が制作される。これ以降、テレビアニメの映画化作品は大量に生み出され、日本におけるアニメーション映画の重要な位置を占めるようになる。

一方で、これまで長編アニメではフルアニメーションを基本として来た東映動画であった。しかしテレビアニメの影響を受け1966年の『サイボーグ009』からはリミテッド・アニメーションを応用した3コマ撮りによるテレビアニメとの中間的位置付けの「B作」と呼ぶ路線が開始となる。従来のフルアニメは「A作」と呼びとして区別されるようになった。

1969 年公開の第一作『千夜一夜物語』から始まった虫プロダクションによる「アニメラマ三部作」が制作される。これらの作品は従来の子供向けアニメーション映画とは逆の位置にあり、大人向けとして作らたアニメーション映画である。1970年代には第二作『クレオパトラ』、第三作『哀しみのベラドンナ』が公開されている。

1970年代〜

この時代になって、ついに東映動画は劇場アニメでもフルアニメーションの制作を中止。「東映まんがまつり」は『マジンガーZ』などテレビで人気を得たアニメの劇場用新作という路線に転換した。また、この時期の「東映まんがまつり」は東宝の「東宝チャンピオンまつり」とともに、新作ではない既に放送済みのテレビアニメをそのまま劇場アニメとして上映していた。一方で、虫プロダクションが倒産して、劇場向け長編アニメといえば東映動画の独擅場だった日本アニメ界において、変化が起きるのは 1970年代後半である。

1970年代後半になると、主にテレビアニメをオリジナルアニメ化した作品が登場する様になる。1974年にはテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が放送される。テレビでの本放送時にはあまり人気が無かったが、再放送によりヒットすると、1977年にテレビ放送を編集した劇場版が公開され、初日から徹夜する客が出る等の大ヒットを記録する。翌1978年には『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が公開され空前の大ヒットを記録し、この2作品によって子供をターゲットとしていたアニメ映画というものが、年齢層を超えて楽しめるものであると認識される様になった。この後、劇場用アニメ映画が数多く作られることとなる。

『宇宙戦艦ヤマト』シリーズは2作目以降、オリジナル作品が制作されることとなるが、これらの続編ではテレビを意識してか、シネマスコープサイズではない比率の映画が作成されている。

1978年には実写とアニメを合成した映画作品『火の鳥』が公開されたが、この当時はSFブーム期だったため、大ヒットにはならなかった。同年には世界初のアニメビジョンの作品『ルパン三世 ルパンVS複製人間』が公開されるなど、1970年代後半には数多くの作品が公開された。1979年には宮崎駿が初めて監督にデビューした作品『ルパン三世 カリオストロの城』が公開される。本作はヒットにはならなかったもののアニメファンや業界関係者の評価は当時から高く、後のアニメーターたちに深い影響を与えた。

『科学忍者隊ガッチャマン』『海のトリトン』『未来少年コナン』『アルプスの少女ハイジ』などアニメブームに乗って、テレビアニメを再編集した長編アニメが劇場で公開されたのもこの時期の特徴である。これはアニメブームを当て込んだものである一方で、東映動画以外の制作会社はそれまでもっぱらテレビアニメの制作を専門として劇場向け長編アニメを制作するノウハウが無く、急な需要に応えるだけの余力に欠けていたことが原因である。観客の側にとっても、ビデオデッキとレンタルビデオ店の普及が1980年代の半ばだったこともあり、再放送以外では人気テレビアニメを再鑑賞できる唯一の機会という側面があった。

また、『宇宙戦艦ヤマト』の舛田利雄を始めとして、1980年代初めまでのアニメブームは実写畑の映画監督をアニメに起用した例が多い。恩地日出夫『地球へ…』(1980年)、浦山桐郎『龍の子太郎』(1979年)。これは一説には、当時アニメ映画に馴染みの無かった地方の映画館主を納得させるためだったと言われる。